ネバエン加藤とバンドマン
吾輩は加藤である。ステージネームはまだ無い。
北海道は石狩市の雄大な平野に生まれ、何でも登校途中の牧場で牛にモーモーと威嚇された事だけは記憶している。
吾輩は広島という地で初めてライブハウスというものを見た。
しかし後で聞くとそこは怖い人が出入りしており、何とも近付き難い場所であったそうだ。しかし実際は何ということもなく別段恐ろしい場所ではなかった。
ただバンドがかき鳴らす大音量の迫力を前に、何だか気持ちがスーッと晴れ渡るような感じがあったばかりである。
当時のバイトの先輩に誘われて行った何回かのイベントが、バンドマンというものの見始めであろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。
なぜバンドマンは音楽はこんなにも人を魅了し、ライブハウスは愛され続けているのか。
吾輩はもとより音楽の世界に興味があった。広島の地に踏み入れた春。
両親を説得しベースという楽器を手に入れ、ただ独り遊ぶ日々。
普通ベースは独りで弾いてもつまらないものだと人は言うらしいが、当時は何という考えもなく充実した大学生活であった。
そんな大学生活も終わりを迎えようとしていた時、ライブハウスに誘われたのは至極幸運なことであった。
だがしかし、バンドマンという職に就くつもりは甚だなかった。自己主張が苦手で根っからの裏方主義であったためだ。
そんな折ライブハウスで始めて目を引く仕事が音響である。
専門知識は皆無。困難な状況であろうことは理解していたが、何とかアルバイトという形で仕事を行い始めた。とはいえ音響とは全く関係のない仕事であったが、全てが学びであったように今は思う。いわゆる下積みを経て音響の仕事を得る事にはなるのだがそれはまた別のお話。
ライブハウスでバイトを始めて一ヶ月ほどのことである。
何でも「歩行者天国」という奇妙な名前のバンドがベースを探しているとのことだ。
それがどういうわけか独りで遊んでいただけの吾輩が誘いを受けるとは全くの予想外であった。甚だバンドをするつもりはない、と思っていたのだが、これは早計ではないか。この機を逃せば次はないのかもしれない。これもまた何かの縁なのではないだろうか。はたまたバンドマンという職に関して、あの時、ライブハウスで感じた疑問に一つの答えが得られるのではないだろうか。
そんな想いに駆られ遂には依頼を受けると口にしていた。
今思えば、全てはここからだったのかもしれない。
吾輩はネバーエンディング加藤である。本名は加藤雅裕。
広島は激安のアパートに住み、健康のためにブロッコリーを生で喰らう。
バンドマンに関して未だ解らず。音楽業界も先が見えず。
今はまだ死ぬ時ではない。今はまだ苦しいばかりでもない。
今はまだ、あがき、もがき、努める時なのである。