幸福論を聴きながら
人にとっての幸せとは何なのか、といったいわゆる幸福論を考えるときが時たまある。
そしてそんな時はだいたい椎名林檎さんの幸福論を聴いてみたりもするのだが、同じような人はいないでしょうかね?笑
ただ僕はもう答えは知っているんです。人にとっての幸福とは人間関係であるというのはいろんな研究データを見てもそうだし、実際に周りを見ていてもそうなんだと感じる。
もちろん一部の天才と言われる人にとっては孤独であることが幸福につながったりもするんだけど、そういう人は本当に稀だろう。
だが答えを知っているからと言って、自分が幸せであるとは限らないのである。
これは他のことでも同じで、例えば僕はいろんな本を読む中でたくさんの答えのようなものが手に入るんだけど、それがそのまま答えになることなんてまずまずない。
人生相談においてもそうなのかもしれない。相談して相手にアドバイスをもらって、その時はすごくいいかもと思って実際挑戦したがうまくいかなかったりなんてことはよくあるんじゃないだろうか。
言い方が悪いのかもしれないが、この世は答えまがいなもので溢れているのだと思う。
これはもちろん、その著者や相談相手のことを責めているわけではないですからね!
簡単に言えばその人にとっての答えが、自分にとっての答えになることなんてほとんどないよなってことです。
ただそうは言っても答えを得るためのヒントにはもちろんなるわけで、そういったものから試行錯誤してみるのは素晴らしいことじゃないかなって思います。
つまづいたっていいじゃないか、にんげんだもの。とはよく言ったものである。
話が脱線しましたが、幸福度=人間関係の良し悪しという関係が成り立つことを感じたエピソードを一つ。
これは他ならぬ自分自身のことであるが、人生を振り返ってみてすごい楽しかった、幸せだったと感じるのは小中学生までのことである。何か具体的にあれがとかこれがとかは覚えていないのだが、その当時は周りにいるのはだいたいみんな友達で、毎日のように遊び呆けており、自分で言うのもあれだがそこそこ明るくひょうきんな子供だったと思っている。笑
当時は当時で嫌なこともたくさんあったはずだが僕にとっては幸せな日々だったように思います。
そんな日常がガラリと変わったのが高校に入学してからだ。
僕と同じ中学校に通っていた人が誰もいない高校に入ることを決めたのだが、最初はそれでも余裕で友達なんかできるだろうと謎の自信を持っていたわけだ。
だが入学したのちそれは見事に打ち砕かれることになった。笑
周りは同じ中学から上がってきた人たちですでにグループができており、僕のように単独で乗り込んでくるような人はほとんどいなかったのである。
そうは言っても、普通に話しかけて普通に友達作ればいいのにと今では思うが、当時の僕にはそれがうまくできなかったのだ。
ああ、思い出すと悲しい気持ちになってきますなぁ。笑
休みの日とかだいたい中学の頃の親友と遊んでたっけなぁ。。笑
もちろんゼロコミュニティと言うわけではなく、部活の仲間たちとはそれなりに仲良くやっていたような気もするし、今でも時たま連絡とったりもするんだけど、僕が一人でいるのが好きになったのは高校からだったように思えます。
その結果なのかはわからないが、大学も単独で広島大学に乗り込み、また友達ゼロスタートを切るようになるわけです。
だが大学の頃から徐々に社交性スキルを身につけ、そこそこに友達もでき、バカやって遊んだりもして楽しかったんだけれど、何となくそこには孤独が付き纏っているような気がしていた。
それはきっと、自分自身が人間関係を必要としていなかったことが原因だろう。
人間関係に怯えていたと言っても良い。友達の有無はさほど問題ではなく、孤独というのもそんなに嫌いではないと思っていたのがよくなかったなぁ、と反省。猛省である。
今でもその感じは残っているような気もするが、昔よりはバランス取れていると自負しています。
最近は友達と体動かすのが何とも楽しく、早くコロナ期間が終わってまたみんなでボルダリングとかトランポリンとか行きたいなぁと願うばかりです。
人間関係の悩みってのは誰もが抱えるものの一つだと思いますが、皆さんは僕のような過ちを犯すことがないようにしましょうね!笑
僕よりもきっといい人間関係をお持ちの皆さんでしょうから、それを大切にしていってください。
幸せってのは気づいたらなっているものです。求めるんじゃなくて感じましょうってことなんじゃないでしょうか?
時の流れと 空の色に 何も望みはしないように
素顔で泣いて笑う君にエナジイを燃やすだけなのです